ふと窓の外を見てみると、昨日まで曇天だった空は青みがかっていて、梅雨空を感じさせない空模様だった。
雲の流れはゆっくりで、心なしか時間がゆっくり進んでいるように思える。
時間の流れは変わらないのに、周囲の環境でその感じ方は変わってしまう。
きっと言葉も同じなのだろう。
外の目があるのか、ないのか。場の空気。集団に向けてなのか、個人に向けてなのか。集団であれば、どんな集団なのか。個人であれば、その子の性格、年齢。
何かが違うだけで、感じ方が変わってしまう。
言葉で人は傷つくし、人を貶めることだってできてしまう。
今回、それを痛感した。
言葉はまるで見えない凶器だ。
きっと言葉を伝えることはひどく辛いことなのだろう。
言っても伝わらないことはままあるし、言えば壊れてしまうことだってある。
――そして、言わなければよかったと自分を戒める。
そんなこと、今まで何度も思ってきたはずだったのに……。
意図していなくても、相手のためを思っていても、それは時に相手を酷く傷つけるものになってしまう。
もしかしたら、あるいは。
相手が凶器だと感じたその時、初めて言葉は凶器になりうるのだろう。
以前デカルトの言葉を引用したことがある。
我思う。故に我あり。
しかし、私は少し違うと思う。
我思われる。故に我あり。
人とは相手の印象で形成されるものだ。自分のことをどう思っていようと、自分を評価するのは相手だ。だから自分という実像がどうであっても、他人が作りあげた虚像こそが自分になってしまう。
本物の自分をさらけ出そうが、自分を偽ろうが、それを本物か偽りか判断するのは相手であって、自分じゃない。相手に評価されたそれこそが本物の自分に他ならないんだ。
相手はきっと、崩しては作りあげ、また崩しては作りあげ、そうして瓦礫と一緒にまた新たな虚像を作り続けるだろう。
そんな作業を繰り返し、瓦礫の中からもう一度積み上げようと手さぐりに探していれば、もしかしたら気づかぬうちに実像になっているのかもしれない。でもそれは何の意味もなさない。
だって人の頭の中なんか覗けなくて、だから答え合わせなんてできっこないから。
その言葉にどんな意味が込められているのか、どれが本音で、どれが嘘で、どの姿が本物で、偽物で、それを本当に知ることなんて一生出来ない。
だから人は自分の中で判断する。
意図していない言葉が、凶器になってしまうように。
そうして、全てが相手の思い描いた通りに、その言葉が本音として受け取られる。
否、相手が思ったそれこそがその人の本物なのだ。
判断基準も、人物像も、存在価値さえも相手が握っている。
世界はそうやって、自分以外の人中心で廻っているのだ。
だからこそ。
他人の気持ちを思いやり、尊重し、傷つけないように、言葉を伝えないといけない。
けれど、それは馴れ合いを演じるわけじゃない。
自分の信念から目を逸らし、信条に背き、自分の中にある確かなものに嘘を吐いて出てきた言葉なんて。
それは欺瞞でしかない。
もしそれをすれば、きっと目の前に広がるそれは壊れることのない、まるで時が止まったように穏やかな世界なのだろう。
しかし、止まった時は、一生動き出すことはない。
そんな世界を、本物とは呼べない。
だから私は。
いや、俺は。
俺は、知らなければいけない。
知りたい。相手の判断基準を、価値観を、人物像を、存在価値を、そして思いを。
人とつながり続けるために。
そのつながりを本物と呼ぶために。
相手のことを知ろうとあがき続けなければいけない。
だから、だからきっと……。
気付くと空の色は昼と夜の境目を表すかのように東と西で二色に分かれている。
もうしばらくすれば日が落ちる。残り僅かな時間を彩ろうと夕日は外を照らしていて、けれどもその光は徐々に弱くなっていき、もうじき辺りは暗くなっていくだろう。
そうして、まるで俺たちを振出しに舞戻すようにまた太陽は上る。
それでも、明日はいつもと違う風景が目の前に広がるはずだ。
何も変わらない世界。
何も壊れない世界。
そんな優しい世界が。
もし、そんな世界が手に入るのだとしても、やはり俺はそれを望まないし、手を伸ばすことはない。
きっとその世界は、虚ろでしかないから。
人の頭の中なんて覗けない。答え合わせなんてできっこない。
伝わらないことだってままあるし、壊れかけてしまうことだってある。
結局、嘘のない、お互いが理解し合える、本物の関係なんてもの、この世界で実現することなんてできないのかもしれない。
それでも、そうやって誰もが理解し合おうとあがいているその関係に間違いはないはずだ。
俺はまだ、たくさんの人の心を理解することができていない。
そして、俺の思いを届けることだってできていない。
――だから、きっと伝え続ける。