親の体罰禁止。来年四月から。
そんなニュースがツイッターから流れてきた。
親による子供への体罰を禁じ、児童相談所の体制強化を盛り込んだ改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が参院本会議で全会一致により可決、成立した。
らしい。
ようするに親が自分の子供を殴ったりしたら犯罪として扱われる、ということなのだろう。
虐待は人としてあるまじき行為である。許されるものではない。それは絶対だ。
なぜなら、そこには何もないからだ。
それをする意味も、価値も、理由すらもない。
ただ傲慢な大人の愚かな自己満足が起こす、忌むべき行為でしかないのだ。
だから、何かを好転させるきっかけにはならないし、次につながることもない。
その先にあるのは、きっと残酷な結末だけ。
それを防ぐことができるのなら、何だってするべきだろう。
法改正だろうが何だろうが大いに賛成するし、署名やらなんやらがあればすぐさまサインだってする。
けれど、ただ単に「厳しさ」を排除するというものであれば、そこには疑問符が浮かぶ。
今日日のサッカー指導では暴力根絶を掲げている。
これもごもっともである。未来がある子供に、暴力を振るう権利がある者なんているはずがないのだから。
ただ、それが暴力だけじゃなく「厳しさ」という概念さえも排除するというものであれば、それに関しては否定せざるを得ない。
人はみな、綺麗ごとを求める。
きっと、傷つきたくないからだろう。
だから、インスタントに綺麗な言葉を正しいものだと定義する。
褒める。自信を持つ。認めてあげる。
確かに、それも重要なことだ。良いところを積極的に見つけようとすることは指導において、いや、人を育てることにおいて必須だ。
できるようになったらもちろん褒めてあげないといけない。できないことができるようになったというのは、それはとても素晴らしいことだから。
けれど、欠点を寛容に受け止めるということは、必ずしも大切というわけではない。
自分を信じることを強さだと叫ぶ者もいるだろう。
子供を強者だと認めることが優しさだと言い張る者だっているだろう。
うちの子はできる子だと、自分の選手はうまいと、そう信じてあげることが必要だと論ずる人はたくさんいる。
しかし、すべてそうすればいいというわけではない。
それは、私が最も嫌う馴れ合いにすぎない。
綺麗な言葉を並べてそれを正しさと定義して、厳しさを汚いものだと断定することで優位性を見せつける。
それが馴れ合いという名の沼につかりきっている者が言う「育成」の正体だ。
けど、育成というものはそういうものじゃない。
なぜ「今」のやれない自分をしっかりと見つめてやらないんだ。なぜその自分を認めてやらないんだ。
どうして「今」のうまくいかない子をしっかりと見てやらないんだ。どうしてその子の「今」を認めてやれないんだ。
できない「今」の自分を認めないで、できない「今」のその子を認めてやらないで、一体いつ誰を認めてやることができるのだろう。
「現在」から目を背けて、そうやって「今」を否定して、これからの自分を思い描くことなんてできるのか。
否定して、やっているだけで変われるなんて思っちゃだめだ。
自分のことを過信して自信を持つことは強者の証だろうか。他者の能力を過大評価するのは思いやりだろか。
いいや、違う。
そんなものを強さとは、優しさとは呼べない。
呼ばせない。
自分のことを敗者だと思う強さだってあるし、その子を弱者だと認めてやる優しさだってあるんだ。
自分のことを敗者だなんて思いたくないだろうし、親密な関係の人間にお前は弱者だと言い放つのは心が痛むだろう。落ち込む子供なんて誰も見たくないに決まっている。
誰もがそういった行為を拒絶し、行うことを恐れるはずだ。
だから、人はそれらを悪いことだと決めつけた。
自分を信じることを強要し、褒めることだけを良しとする、そんな行為の正体は、ただの欺瞞なのだ。
だからこそ、弱者や敗者だと認めることは強さや優しさと言えるはずだ。
そんなもの、厳しさを肯定する古い人間の愚かな屁理屈だと、否定する者もいるだろう。
けれど、私はそれを否定する。
それをしないと、何も始まらないんだ。
始められないんだ。
強がることこそが逃げなんだ。自分の弱さから目を逸らすことこそが甘えなんだ。
他者に嫌われたくないから偽りの笑顔を浮かべるんだ。怖いから目を瞑るんだ。
でも、目を背けてはいけない。
敗者と認めるからこそ、できることがある。
弱者と認めてあげるからこそ、伝えられることがきっとある。
そうすれば、できるようになることがたくさんあるはず。
本当に、強くなれる。
本当の勝者に、きっとなれる。
怖くても目を開け続けなきゃ。
先に何があるかなんて、その瞳で映さないと分からないのだから。
夜の空に浮かぶ雲は明かりを隠す。
目の前に並ぶのは頼りなく灯る街灯だけ。行く末が不安になってしょうがない。
けれど、やがて雲は流れていき、いずれは月明りが道を照らすだろう。
――その時までずっと、瞳は先を映し出す。